米沢藩古式砲術保存会の起源
明治に入り、明治三十八年一月八日、日露戦争旅順口陥落の市民大祝勝会が行われたが、この時市中甲冑行列と松川河原において川中島模擬合戦が行われた。(現在の川中島合戦の元祖)そしてその時に尚武要鑑会が設立され、旧米沢藩士による甲冑行列と川中島模擬合戦が四月二十八日に行われた。以後上杉神社祭礼には古式武装行列を行うこととし、昭和十八年頃まで続いた。
大正十四年十月、皇太子殿下(昭和天皇)は上杉神社ご参拝の折、三十匁筒隊の発砲を台覧された。この時、八十歳を越えた宮坂善助の祖父が発砲したのを賞賛された。
戦後の昭和三十年三月三十日米沢尚武要鑑会が再復興し、上杉神社祭礼神輿渡御行列に尚武要鑑会の武者行列、騎馬隊、鉄砲隊が加わった。

宮坂善助の活躍あり
宮坂考古館に展示されている銃
尚武要鑑会の副会長であった宮坂善助(宮坂考古館初代館長)は実質のリーダーであり、祭りになると隊員達は朝早くから宮坂家に集まり準備をしていたので、宮坂家では参加者のおにぎり作りや馬の飼い葉の用意やらで、一党の女衆はお祭りをほとんど見たことがなかったという。春の米沢祭りはこうして年々充実していった。
翌年昭和三十一年からは火縄銃発砲の遠征が始まった。上山まつり、福島、高畠などでの祝砲や弔砲が主であり、数人の遠征であった。
隊員も充実してきた昭和三十四年には会津まつり市政六十周年行事に参加、発砲体制を稲富流の実践射砲に則り、三隊編成とした。

全国、そして世界規模での活動
昭和三十六年、隊の名称を米沢藩稲富流砲術隊(隊長宮坂善助)とし、秋田国体に参加、以後、東京オリンピック、札幌オリンピックなど、活動も全国規模となっていった。昭和四十九年宮坂隊長死亡に付き宮坂弘が隊長となり、姉妹都市、親善友好都市交流でも活躍する。
さらに火縄銃三十匁筒は米沢市の文化財の指定を受けたが、火縄銃は単に陳列して置くだけではその真価を見ることは出来ず、生きた文化財として実際の取り扱いや発砲の威力を感じてもらうところにあり、その古式砲術の伝承のために昭和五十四年米沢藩古式砲術保存会(山田武雄会長)と改組充実した。昭和五十八年宮坂弘隊長死亡のため宮坂直樹が隊長となり、昭和六十三年、日本文化を紹介するヨーロッパジャパンウイーク参加でフランスへ、平成四年はスペインへと国際的な交流を図る。またこの年から宮坂直樹が保存会会長となった。

戦国の歴史を見事に再現
平成七年五月四日、第一回日本古式砲術サミットが米沢市で開催され、全国から七団体が参加、見事な砲術演技を披露した。米沢の砲術は江戸時代から「上杉の雷筒」と恐れられ、その威力は今でも驚嘆させられる。
また実践さながらのこの砲術は戦国の歴史を見事に再現している。
全国に火縄銃保存会が十数団体あるが、実践射法を伝承しているのはこの保存会だけである。

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